神社縁起

【六日町八坂神社縁起】

六日町八坂神社創立に関する文献(吉祥院文書)の中の太平記第十巻の中に、 元弘三年(1333)鎌倉幕府追討の論旨を奉じて集まった新田義貞など源氏将兵により鎌倉を攻め落とした。(参考文献資料最後に附記) 義貞ほその戦功によって越後守に任ぜられ、また魚沼郷の地はそれら兵士の 所有地となった。 義貞の弟・脇屋義助は此の度の大勝利は神仏の加護によるものと、 牛頭天王の御姿を自ら刻み、この地方の守護神として六日町浮保島(おぼじま)に祭るとある。明治以前は天王社と称し、通称天王様と親しみ信仰されてきた。(吉祥院の古い記録の中)創祀は元弘三年(1333)今より六八八年前となります。現在の社殿は大火により嘉永四年(1850)八月再建されたもので京都八坂神社にも、その記録がが残されております。 明治新政府は神仏分離、一村一鎮守の政策を打ち出し、六日町の氏神様として京都と同じく名称を八坂神社とした。

【神輿渡御と大祭について】 年一度の大祭は、京都祇園祭の旧暦六月七日、本社から御旅所に神輿の渡御を以ってする。 神輿迎えの日を六日町の祭禮日とした。現在の大祭は京都神幸祭、山鉾巡行と同日の十七日を宵宮祭、翌十八日を神輿巡行、十九日を後祭としている。 神輿は宵宮祭の早朝組み立て飾りつけられ、十八日早朝獅子舞が巡行道路を悪魔払いの清めに出発すると、祭神牛頭天王を神官の手にて神輿の中にお移し申し、秘仏にして人の目に触れることはない。 行列の先頭を露払いとして左右に若者が立ち、傘鉾、重立衆、氏子衆と裃姿姿で行列に加わった。白丁を身にまといたる町衆の若者によって神輿は担がれ、御剣先に前後守られ町内を一巡する。 巡行のお囃子は太鼓、笛からなる祇園囃子を奏でる。この祇園囃子は遠く昔より伝えられ京都祇園社より伝えられる曲と言われている。 京都山鉾巡行の原型をなす一昔前のものと京都八坂神社宮司は語られ、六日町に現在も残る風習を保存し後世に伝えてほしいと申されています。 現在は代表役員(宮司)、六日町大字13区より選出された責任役員8名と大字区の氏子総代32名により構成され、神事が執り行われています。